大熊孝最終講義 「川のあり方と水辺のまちづくり」―技術の普遍性と地域性―(骨子)

今日はたくさん方々にお集まりいただいてありがとうございます。500名を超える大勢の人に集まっていただいたことは一度もありません。
私の三十四年の集大成として大変感激しております。ありがとうございます。

 

1.生い立ちと自然観。歴史観

 

私は台北生まれで高松、千葉、新潟と移り住んできました。

 

「利根川治水の変遷と水害」は私のドクター論文。です。この論文には一行も数式がない。利根川という個別の河川を扱っていて普遍性がないということで、ドクターの学位をとるのに苦労した。ドクター論文を書いて7年後に出版した。これが20年経ってもまだ再版されていることでまだ死んでいない本だと思う。

 

「洪水と治水の河川史」のおかげで全国の人々と知り合いになった。大学入試の長文読解の問題にも使われている。昨年再出版させていただいた。

 

「川が作った川、人が作った川」も中学校の試験などで使われているとのことである。
2007年にまた「首都圏の水があぶない」という利根川の話の本を書かせていただいた。

 

また、掛川哲学塾をやってきていて、その中で本を共著で出させていただいた。

 

「技術にも自治がある」は定年に合わせて出そうと思ったが、ちょっと不十分なところもあったが早く世に送り出した方がよいと思い4年前に出版した。

 

私は台湾の台北市生まれで祖父が日清戦争の後に八田興一と一緒に事業して、その事業費を集めたところで亡くなった。私が最終的に土木や河川の道に進んだのはこういうことがあったからだと思う。

 

太平洋戦争後に引き上げて高松に住んでいた。水害に何度か遭って、長屋をかさ上げした。毎日近くの裏山でなたをもって遊んでいて、薪を抱えて帰ってきた。

 

その後父が事業を失敗し、千葉に移り住んだ。干潟ではハマグリやアサリがたくさん採れた。高校時代にはサッカーをやっていた。当時身をもって国破れて山河ありというのを感じた。野山に出て行けば食べるものがあった。

 

残念ながらこの干潟も開発されてしまった。次に第二次世界大戦のようなことが起きたらひもじいまま死んでしまうのかなと思う。

 

私が習った歴史では、縄文文化は農耕文化で遅れているといわれている。今考えると農耕をしなくても農耕文化と同じだけの文化を持っていたととらえることが大事である。四季折々食料があり、農業をしなくても良かった。こんなことは高度経済成長が前まではごく普通のことだったと思う。
私が習った歴史では縄文時代や江戸時代は野蛮な世界であった。これを払拭するのに時間がかかった。

 

渡邊京二の「逝きし世の面影」は幕末から明治初期に来日した外国人の日本評を集大成した本である。これを読むと日本の江戸時代は素晴らしかったと感じる。

 

もう一つ日本を高く評価しているのはヘンリー・ダイアーというイギリス人であった。たった24歳で日本の工学教育の基礎を作り上げている素晴らしい人だと思う。ダイアーは下々のことをよく考え、近代科学だけではなく江戸時代からの技能や職人を高く評価した教育を行っていた。日露戦争に反対したことなどもあるせいか日本では無名であった。彼が1904年に書いた「大日本」は1999年にようやく出版された。

 

田辺朔郎はヘンリー・ダイアーの教えを受け継ぎ、琵琶湖疎水や北海道鉄道の建設を行った。
ヘンリー・ダイアーの教育から少しずつずれてきたのは古市公威が東京帝国大学工学科大学学長になった頃からだと思う。この人は新潟にもゆかりがあり、信濃川の治水を行ったり初代萬代橋の木橋を設計した。彼はヘンリー・ダイアーの工学校を引き継ぎ、東京帝国大学工学科の学長となった。そのあたりからの教育は伝統的技術を軽んじてくるようになった。

 

田中豊も隅田川の橋梁群や三代目の萬代橋を設計した。しかし、錦帯橋の復元で鉄筋コンクリートにして、表面に板を貼れと言った。彼が日本の伝統的な錦帯橋を評価できなかったのは疑問である。そのあたりから東京大学の教育の方向が変わってきたと思う。

 

それまでは地域の人々のことを考えてやっていた仕事がたくさんあったが、日露戦争以降土木技術者は国策に従って仕事をすることになったように感じる。国策だけではなく住民一人一人の人生に配慮した仕事のあり方があると思う。

 

 

2.学問・技術のあり方

 

学問は人の生きていることの本質を明らかにし、意義ある人生の実現を手助けすることにある。

 

生きるということは、今という瞬間の積み重ねであり、訂正がきかず、うしろめたさがある。

 

一方科学は同じ結果をいくらでも再現できる普遍性がある。

 

学問は真理探究型と関係性探求型の二つの形態がある。

 

真理探究型は一般法則や心理の追求、再現性、消費型、非倫理的な空間的な普遍性である。

 

関係性探求型は、時間とともに変化があってもその流れを受け継いでいく時間的普遍性がある。

 

この二つがあり我々の仕事が成り立つと思う。

 

技術は自然科学に分類されている。機械や化学工学などは人間に都合のいい部分を切り取って、時と場所に無関係に再現性を確保する技術である。私達のやっている土木や建築は自然と折り合いを付けて共生するような技術である。

 

私が考えた土木技術の三段階

1.思想的段階

2.普遍的認識の段階

3.手段的段階

がある。

 

大河津分水を例にとる。

 

思想的段階:200年前にこれが出来ればいいと思っていたが技術がついていかなかった。

 

普遍的認識の段階:明治になって作れるようになったが土砂の吸い出しなど川の特性が明らかでなかったので壊れてしまった。

 

手段的段階:川の特性が明らかになり、実現が可能となった。

 

また技術は誰が担うかというのが大事であり、これも三段階に分類される。

1.小技術:個人的(私的)段階
2.中技術:共同体的段階
3.大技術:公共的段階

 

現代は小中技術がすたれ、大技術に頼る部分が大きくなっている。これについては教育などの問題でも同じ事が言えると思う。

 

 

3.川の本質を覚えるまでー大学での前半期における活動

 

広島の太田川災害の裁判では立岩ダムの誤操作が原因であったと感じ鑑定人となった。

 

海外も行っている。3ヶ月ほどインドネシアに行き、橋を造ることなどやってきた。基本的にインドネシアの人々は川戸一帯となった暮らしをしていると感じた。

 

1980年から10年ほど消融雪溝、流雪溝を研究した。なんでも反対ばかり唱えていては大学の仕事も回っていきません。今の篠田新潟市長が新聞記者の時代に研究の様子を取材に来てくれた。また徹夜で大勢の人が手伝ってくれてお世話になった。

 

土木学会を政令都市ではない新潟で開いたときも技官の皆さんにはお世話になった。

 

当時JAPIC計画があり、君知事は反対していて関東分水影響調査検討委員会を作り、私も一員として入った。このときに水というのは生態系にどう影響を与えるのかを勉強させていただいた。

 

このとき計画された野辺川ダムには反対だったが、中越地震のときの崩壊地が計画地であったので、反対しておいて良かったと思う。

 

1987年に新潟の水辺を考える会を設立した。「よこはま川を考える会」の山道省三さんなど多くの人びとにはお世話になった。柳川堀割物語の上映とシンポジウムが発足のきっかけであった。その後、汗をかく会、責任をとる会となるように歩んできた。

 

1991年に水郷水都全国会議を新潟で開き、通船川ルネッサンスの星島さんなどと出会うこととなった。

 

もう一つ大きな転換は「阿賀に生きる」という映画の制作に関わらせていただいたことであった。

 

多くの人々から寄付をいただいたがそれでも足りなくて1000万円の借金があった。この映画の制作の間に私の物の考え方も変わった。この映画は多くの賞をもらってその賞金で借金を返した。しかし、地元の新潟日報文化賞をもらえなかったのが残念だった。また昨年9月に監督の佐藤真さんが自ら命を絶ったのは残念だった。

 

アメリカでのサンアントニオは川の蛇行をうまく生かしていた。ナイアガラのウエランド運河を見て、彼らは100mの落差をなんとも思わないでいることに驚いた。それなのに新潟と会津ですら舟が行き来できなくなっている。

 

 

4.川とは?

 

日本の川は急勾配で短く洪水になりやすい。しかし短いから山と海が川によって一体となっていることを忘れている。

 

新潟に来てサケが川が遡る姿を見て、これが生命を支えてきた、縄文的なとらえ方も必要だと思った。

 

水俣では山のほこらの中に海の幸の珊瑚やアワビが供えてある。森は海の恋人という言葉が近年言われているが、私達日本人は山と海はつながっていたことを古くから知っていた。

 

川が運んできた土砂で出来たところに多くの人が住んでいる。災害にあいやすいところほど人が住みつきやすく、被害にあう。川はこうした矛盾を抱えていて、そこに文化が生まれるのである。
私が学生の時、洪水は無駄に流れていて、ダムは作るのは良いことだと思っていた。しかし、生態系のことなど考えた場合そうではないことが分かってきた。

 

映画「阿賀に生きる」ができた1992年頃ようやく川とは何かが分かってきた。

 

川とは、地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害委という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である。

 

ダムは川の物質循環を遮断する物であり、川にとって基本的に敵対物でしかない。しかしそのときに川にお願いしてダムを造ったのか、そうでないかは大きな違いがあった。もはやダムのない川はほぼ絶滅に近いのではないかと思われる。

 

阿賀野川も信濃川も発電のための川になってしまっている。しかし、その川沿いを走る鉄道は電化されていない。新潟の人はお人好しだなと感じてしまった。

 

江戸時代には信濃川では松本まで5万本のサケが遡っていた。環境放流という観点で沿川市町村の合意を得て新潟水辺の会がサケの稚魚を放流する。これをきっかけにもう少し生き物の住める川にしてもらえるように発信していければと思っている。

 

清津川ダムは私が新潟に来たときから作る方針でいた。これが定年前に計画中止となった。私は川沿いのブナ林が守られて良かったと思っている。現在同じようなことで関東の八ッ場ダムや九州の川辺川ダムは行政も住民も困っている。

 

 

5.河川構造物を考える

 

これは魚野川の簗(やな)である。子どもを裸にすることができる構造物である。私の息子が小さい30年ほど前でも今でも子どもは裸になっている。こんな構造物を作れればいいと思うが、難しい。

 

長良川河口堰はシジミが死んだなど問題がある。専門家しか管理できず、素人は近づけなくなってしまっていることも問題である。

 

渋海川頭首工はボタン一つで川の水が調節できるようになった。地元の人にこれが出来て良かったかと地元の人に訊いてみた。大きな機械室は景観を壊してないか、今度壊れたときに直すお金をどうするのか、子ども達が遊べなくなったことをどう思うか。

 

この頭首工の近くには岩塚小学校があり、そこの校歌の歌詞には「青田潤す川瀬の水も 時にはあふれて里人達の たわまぬ力を鍛えてくれる われらも進んで仕事にあたる 心とからだを作ろうともに」とある。川はあふれることがあり、それと共存する努力をしていこうと謳いこまれていて素晴らしいと思う。

 

我々技術者は治水や利水のことしか考えて設計しなかった。子どもが遊んでいたことを頭に置いて設計していればもっと違う物になっていたと思う。

 

福岡県矢部川の松原堰は可動堰になるときいた。今の姿でも可動堰の役割は果たしている。洪水が来れば石が転がってスムーズに流してくれる。ただその後の石を積み直すのが大変であるが、重機が発達して楽になったので今のままでイイと言った。しかしラバー式の可動堰に変わり、ゴムの上を子どもがトランポリンみたいにして遊んだら危険だということで子どもは近づけなくなった。

 

これは「週刊金曜日」に掲載された串良川の堰を地域のみんなで直している写真である。この後集会所とかに集まって楽しくいっぱいやれると思う。仲間とともに楽しい時間が過ごせる構造物も大事である。

 

吉野川第十堰は地元の人々は住民投票までやって反対となったが、まだ決着がついていない。ここで水遊びをしたり生き物をとったりした記憶が残る空間としての構造物を残していきたいと訴えている。

 

もう一つ私が川を考えるのに大きな影響を受けたのが桂離宮である。桂川のそばにありしょっちゅう水害に遭っている。堤防には水害防備林があり、ここに土砂をのこして、きれいな水がゆっくり流れ込んでくる。こういう工夫で水害に対応していて、書院は床上浸水に一度も遭っていない。

 

4年前に狩谷田川や五十嵐川が水害にあった。そこでは死者も出た。中之島では高い堤防が密集地で破堤した。そばに大きなお寺があった。土台は大きなコンクリートの基礎になっていたが、それがひっくり返った。400年あるから安全だろうということでここが地域の避難場所であった。町長は出張中で避難勧告が遅れた。もし避難勧告が早く出されてここに人が集まっていたらもっと多くの死者が出ていた。

 

高い堤防が壊れるのは本当に大変だ。一気に家の中の天井まであふれ、人命も奪っていく。反対側は堤防の上の柵にゴミがたまって溢流していただけなので堤防は壊れていなかった。
同じ時期に福井でも足羽川が破堤した。溢流から破堤まで95分かかっている。破堤のしかたで被害が変わってくる。いかに氾濫量を抑えるかも大事。堤防が壊れるとき一瞬で壊れるのか徐々に壊れるかが大きな違いである。

 

究極の治水技術は400年前に確立されていると思う。成富兵庫重安は城原川は氾濫すると分かっている場所に野越しを作ってあふれた水を上流へと流すようにして被害がゆっくりと広がるようにしていた。

 

渋海川では昭和53年に素晴らしい水防活動が行われた。溢流させる場所を決めて、溢流させる場所が洗掘され破堤しないようにそこに張って防いだ。あふれた水は下流で霞堤になっているところへ流した。

 

これを地域で決めていくのは大変だったと思う。日本人はうまく折り合いを付けてやっていた。我々が川と付き合う中で地域の技術を産み出していった。

 

究極の治水対策は計画を超える洪水に対しても持ちこたえられることが必要。いざとなったら被害の少ないところから溢流させ、破堤させない方法が必要である。それができるような技術はあると思う。それでも浸水被害にあるところは高床式にするなどが必要。

 

水害防備林は河川法の改正で認められてきているが、まだまだ少ない。国土交通省からこういう提案も出ているのだから、先ほどの野越しも積極的に残して欲しいと思う。

 

堤防の強化の実験をやったが、科学的な立証までには至らなかったが効果は一目瞭然であった。現在は連続地中壁工法というのもある。

 

堤防をコンクリートのように固くしろと言っているのではない。溢流しても破堤しない堤防は作りうると思っている。

 

 

6.水辺のまちづくり

 

萬代橋が日本橋に次いで多くの自動車が通っている橋としては2番目に国の重要文化財に指定されたのはうれしい。

 

信濃川はかつて1kmくらいの川幅があった。大河津分水が出来て川幅が狭まった。1kmも川幅があったら都市は両岸一体となって発達することが出来ないと思う。都市が発達するには歩いて渡って苦にならない距離が重要である。

 

川幅が狭まったのは良かったが、関屋分水路という放水路を作らなければ行けなくなった。大河津分水によって新潟の都市がつくられてきたと言っても過言ではない。

 

萬代橋が重要文化財に指定されたときに、橋則燈や街灯を施工当時の物に戻そうとした。

 

かつて樋口先生の提案でライトアップをする運動をした。これにより萬代橋が見られる対象になり、萬代橋や信濃川への意識の変化やそれを見るまちづくりがされてきた。川を向いた建物ができたり、信濃川ウォーターシャトルも就航した。

 

舟が走ることによって信濃川の景観はかわる。動く物が存在するのは画竜点睛で動く物がないとつまらないものになってしまう。

 

信濃川ウォーターシャトルは市民株主が多いが、株を持つことでまちづくりに参加しているという意識を持つことは重要である。

 

ウォーターシャトルで大河津分水まで行ったが、景観は退屈だった。ライン川などには見劣りする。だから解説者は重要だ。

 

大河津洗堰の閘門はすばらしい、長岡まで行けるようになればいいと思う。ヨーロッパではそれが普通だが、日本もそうなってほしい。

 

萬代橋を重要文化財に指定するときに問題になったのが防護柵の設置基準である。建設省道路局長の通達で110cmになったが、これは法律ではない。現在の萬代橋の高欄を高くすると重文にはならない。子ども達が楽しげに川を見ている。高さを上げたらこれができなくなる。萬代橋は77年間落ちた人はいないじゃないかということが証明となる。地域は地域のやり方で85cmを残して欲しいと訴えた。色んな人も新聞に投書してくれた。

 

当時の新潟国道事務所の所長は萬代橋の本体の美しい姿を損なうことなく後世に伝えると決断した。これをオリジナルの姿に戻そうと街灯や橋側燈を昭和初期の形に復元してくれた。
橋側灯を復元するとライトアップとバッティングするがそれをどうするかと議論があり、橋側灯がライトアップになるという話になった。しかし、市民の募金で実現したライトアップの精神を引き継いで、2000万円を目標に橋側灯復元のための募金をやった。

 

私のところの学生さんも募金活動をやってくれた。これで1823万円を集めることができた。これで4基寄付させていただいた。新潟日報の協力で、募金をしてくれた人はたとえ100円だろうと名前の分かる人は出来る限り新聞広告に名前を掲載した。これでこの活動が語り継がれることになったと思う。

 

星島さんと出会うことで通船川をどうするかということをたくさんやった。川沿いのショッピングセンターでもワークショップをやらせてもらった。通船側はかつては阿賀野川の本流であった。二つの貯木場があり、そこに100艘の舟を浮かべて水上マーケットにしたらいいと思う。言っていればいつか実現するだろうと、ことある毎に言っている。

 

通船川は信濃川から2m水面が低い。新潟地震の復旧で打たれた矢板も腐ってきている。その川をどうするかということで、新潟県の呼びかけで通船川栗の木川下流再生市民会議を開き、行政も住民も顔を見合わせて議論してきた。インターネットでの議論だけでは足りないこともたくさんある。

 

通船川は今から数十年前までは全国ワースト5に入る水質の悪い川であった。

 

区画整理の最中で川の議論をいろいろしていたら、区画整理の方から緑道の幼稚や公園を川沿いに配置するなど、河川事業も土地区画整理事業が歩み寄ることが出来た。そこに階段護岸を作ってもらい、船を浮かべたりして楽しんでいる。

 

ここの住民は30~40歳の引っ越してきた人が多く、柵がない、危険だという声もあった。救命用の浮き輪も子どもが投げて危険だと撤去された。地域でどうルールを作っていくかが課題だ。
栗ノ木川も落ちたらあがれないのでフェンスで囲まれている。にもかかわらず川沿いには緑地帯がある。せっかく作るんだから川と一体にしようという思想がなかった。近隣の小学校からはフェンスはなんとかならないかと子ども達が訴えていた。地域の人たちにみてもらおうと2004年から桜まつりを始めた。そこで船に乗ってもらったりしている。70歳くらいより上の人は板合わせ船を漕ぐことができる。この技術を若い人に伝えるのも課題だ。

 

フェンスを乗り越え船に乗るのは大変だということで、新潟県が年度末であまった予算があるからといって急遽30mだけ階段護岸を作ってくれた。500万円の事業で3~4千人が桜祭りに集まった。いい事業だったと思う。

 

小学生は自分が訴えて実現した階段護岸だと子どもや孫に話していく。100年は語り継がれるのではないか。救命用の浮き輪は地元のPTAが寄付してくれている。 通船川は先に階段護岸があったこととくらべ、地域の人々との議論で出来た物かどうかに大きな違いがある。

 

記憶に残るような物が重要で、それを子孫に伝えていけるコミュニティ作りが必要である。記憶が我々の精神を形作っている。記憶のない人は成長しない。

 

記憶に残るまちづくりが重要である。新潟水辺の会20周年記念誌は記憶ということをキーワードに編集している。 記憶は、グローバルな時間と地域独自の時間を使い分けていかなければいけない。

 

 

7.最後に

 

最終講義は自慢話の場合が多いものである。そんな自慢話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

退職後はどうするのかと訊かれることがある。

 

私は高床式の家を造ってみたかったので、「阿賀に生きる」の仕掛け人の旗野さんに頼んで建ててもらった。たとえ大河津分水が壊れても床上浸水にならない。定年後毎日ここに通うところにしたいと思う。ドイツ製の自転車も購入したので、それで行ったり来たりしようと思う。

 

屋根の水をあつめてタンクにためているが、庭の木に水をやる程度にしかならない。また中には薪ストーブもあり、水辺の会の事務局もおかせてもらっている。

 

へこたれそうになったときにマザー・テレサの言葉を読み返しているので、最後に紹介したい。

 

「人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをいても、おそらくつぎの日には忘れられるでしょう
気にすることなく、しつづけなさい
あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されることもあるかもしれません
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」

 

マザー・テレサの言葉は他にもいいことばがあるが、元気づけてくれるものと思いました。

 

これで私の話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

 

注:本講義は映像を用いて行われたため内容がイメージしにくい部分もあると思いますが、ご容赦下さい。 (文責:杉山泰彦)

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