紀伊半島・高岡輪中堤の崩壊-熊野川左支川・相野谷川の水害調査-

紀伊半島では、2011年9月2日から4日にかけて、台風12号によって2000mmmに達するような大雨に見舞われた。これによって、熊野川・那智川などが大洪水になるとともに、山間部で急性地すべりが多発し、川を塞き止め、天然ダムが出現した。それがいまだに数個残されており、雨が降るたびに、越流破壊するのではないかと心配されている。

 2011年10月20日、21日に新宮から熊野川沿いに遡り、十津川村を抜け、五条市まで、島根大学の佐藤裕和先生とその教え子の肱岡勝成君(3年生)と東大の梯滋郎君(修士1年)と一緒に災害状況を駆け足で見てきた。天然ダムは危険ということで近くまで行けず、きちんと見ることができず、報告することはできないが、新宮の近くの熊野川左支川・相野谷川(おのだにがわ、三重県紀宝町)の災害状況が特異であったので、それを報告しておきたい。

写真1・高岡輪中の崩壊(大熊撮影)

写真2・高岡輪中を右岸から望む(大熊撮影)

まず、写真1を見て欲しい。これは紀宝町高岡の高さ9.4mの輪中堤が壊れ、中の集落の家が壊された状況である。この輪中堤は、コンクリートのパラペット形式で、強化ガラスで窓まで作られた堤防で、私としてはこんな高価な堤防を見るのは初めてであった。この水害に関する報道記事を見て、私は早速2万5千分の1の地形図で位置を確認しようとしたのであるが、私の持っている平成2年修正測図の地形図にはこの集落は記されていなかったのである。普通輪中堤というと古い集落を囲ったものが多いのであるが、ここは平成になって開発され、平成9年の水害を経験して、この輪中堤が造られたということであった。写真2は、川沿いの水田地帯にこの集落があることを示している。

相野谷川の今回の洪水は谷平野一杯に流れ、山裾の石垣で高く造られた家まで床上浸水しており、水田を宅地に変えた写真1の集落は当然にも9.4mの輪中堤を越流して堤内に洪水が入り、完全に水没した。この輪中堤は外水の水圧に対しては壊れないように設計されていたが、外水が低下すると、堤内の水は吐けないので、内側から水圧がかかり、パラペットの堤防が転倒して、その引き水で家まで破壊したということである。

われわれが訪れたときは水害から約50日たっていたが、ここの集落には誰も住んでおらず、廃墟となっていた。様子を見に来ていた住民に聞いてみたところ、もうここには住めないと語っていた。要は、氾濫地帯に強引に住宅街を造り、20年余りで廃墟にしてしまったということである。こういう開発を見ると、開発をした者も、それに許可を与えた者も、そしてそれを無知のまま購入した者にも、すべて責任があるように思う。

実は、この相野谷川では明治22(1889)年に、今回の水位よりさらに高いところまで氾濫した洪水を経験しているのである。山沿いの石垣屋敷の住民に聞いたところ、親から聞いたところによると明治22年の氾濫水位の方が今回よりさらに1mぐらい高かったとのことである。そうした土地の記憶をきちんと検証して、開発をしておればこのようなことにはならなかったはずである。現状では、土地を購入し家を建てたものだけに被害の責任が押し付けられている。行政は責任分担で、何とか少しでも補償すべきでないかと考える。

なお、ここで驚いたことは、床上浸水した家に泥がほとんどなかったことである。普通、川が氾濫して床上浸水すると、水が引いたあとの床に20cmから30cmの厚さで泥が堆積しているものであり、その除去に苦労するのである。床上浸水の経験があるところでは、男手は避難せずに、水の引き際に、箒で水をかき回し、泥を引き水とともに排除する知恵を持っていたものである。しかし、ここは新興住宅地で、そのような知恵を持っているわけでもないのに、泥がないのである。ということは、洪水中にほとんど泥を含んでいなかったということになる。

1000mmを超え、2000mmに達する豪雨があり、その水が川に出てきたのであるから谷平野が完全水没するのは当然と考えられるが、泥がないということは、雨のほとんどが地中を通って出て来たということである。それは、結局森林がきちんと生育しており、山の崩壊がなかったことを示している。今後、若い人がこの現象をきちんと調査・研究してくれることを期待する。

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