2011年7月新潟・福島豪雨災害の特徴-その4・雨の降り方は変わったのか?

今回の豪雨域は、「2011年7月新潟・福島豪雨災害の特徴-その1」の等雨量線図から300mmを超える雨域をみると、北東から南西にかけて約100km、北西から南東にかけて約70kmと数千km2の大きさを達している。2004年7月13日の五十嵐川・刈谷田川豪雨災害での雨域がせいぜい30km×20kmの大きさであったのと比較して、一桁大きい雨域であった。信濃川の流域面積が約12,000 km2であるので、その雨域は大河川を覆う規模であったといえる。今までの集中豪雨の規模はせいぜい数百km2であったので、大河川ではあまり問題にならなかったが、これからは大河川でも極端に大きな洪水が発生する可能性が高くなったといえる。

事実、今回の豪雨で、阿賀野川は馬下で10,000m3/sを越え、明治以降最大の洪水となっている。また、魚野川でも明治以降最大流量に達し、信濃川は千曲川流域での出水がなかったので小千谷で8000m3/s弱の中洪水であったが、大河津分水から下流でも五十嵐川など史上最大の洪水であり、信濃川下流も帝石橋で3800m3/sを超える大洪水であった。ただ、今回、越後平野内では、内水氾濫程度の被害で、大氾濫がなかったことは「その1」で触れたとおりである。

しかし、山間部では、山崩れの多発とともに、小河川が大出水し、さまざまな水害が発生している。今回の被災地は広域に及ぶため、すべてを見て回ることはできていないが、川の外カーブで護岸が浸食され、堤防が壊れたケースが目立った。また、山間部の河川といえども、川沿いに開発された水田や集落の被害が目立っている。要は、かつて川の領域であったところを開発して、川の領域を狭めたが故に被害にあっているという構図である。こうしたところは、単純に元の状態に復旧するのではなく、川幅を広げ、川の領域を増やして護岸するという方策を取れば、今後の被害を軽減できると考える。すでに減反政策が始まって40年以上がたち、集落の過疎化も目立ってきた。このような方策の採用は十分可能な段階にあると考える。

このことは、何も山間小河川だけでなく、平野部の河川でも同じであり、人間の営為が川の自由を奪っており、そのしっぺ返しとして水害を受けている。今までは、自然を、川を克服して、人間がコントロールできる領域を増やしてきたわけであるが、それがそろそろ限界に達し、自然からの反撃が大きくなりつつあるということである。その顕れの一つが3・11の津波による巨大防潮堤の破壊と市街地の壊滅であろう。

ちなみに、9月はじめに紀伊半島を襲った台風12号では、今まで多くても1000mm程度あった雨が2000mmにも達し、雨域も数千km2を超えている。この災害では、17の天然ダムを出現させ、特に、熊野川支川・相野谷川(おのだにかわ)では高さ9mに及ぶコンクリート製の巨大輪中堤が破壊した。なお、紀伊半島では明治22(1889)年に53の天然ダムを出現させた十津川災害が有名であり、今回の災害は122年ぶりの大災害であった。

このようにハード施設が打ち破られる状況が多発している。新潟の場合、大河津分水を始め、大堤防と堰・水門施設による治水システムがうまく機能してくれたが、これらがいつ打ち破られるとも限らない。これからは人口減少が進み、人間の領域を狭め、自然の領域を増やすことが可能になる。それを実行することによって、本当の意味での“自然との共生”が始まるのではないかと考えている。

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