シンポジウム2018『潟と人の共存する未来』のお知らせ

当日は170人もの方にご参加をいただきました。ありがとうございました。

新潟にかつて人とともにあった潟、「鎧潟」。まだ辛うじて残る土地の人の記憶と残された写真などの記録を辿り映像化し、そのあり方を探るとともに、イギリスの湿地帯プローズを訪ねた野垣成恵氏、水辺と人のあり方を長年模索してきた大熊孝新潟大学名誉教授(土木工学)にお話をいただき、その後意見を交流する公開ディスカッションを行い、ここ新潟で「潟と人間が共存する条件」を探る「映像」×「トーク」の複合シンポジウムを開催します。

 

 

画像をクリックするとチラシ(PDF)が表示されます

【開催概要】

映像×講演×クロストーク シンポジウム 2018『潟と人の共存する未来』

日時:2018年8月18日(土)13:00から16:00

会場:新潟県農業大学校 交流ホール(新潟市西蒲区巻甲120121、駐車場80台程度)

参加費(資料代):300円

定員:250名

主催:新潟と会

協力:豊かな越後平野の原風景を考える会、NPO法人新潟水辺の会、新潟県農業大学校、潟東歴史民俗資料館

協賛:(株)アクアデザインアマノ、(株)重川材木店、デザインルーム アマノ

 

【プログラム】

13:00 第1部 映像「鎧潟の記憶」+詩「鎧潟」

映像:桾沢和典・桾沢彫子(ブリコ ール)
詩・朗読:国見修二氏(詩人)

干拓がなされ水田として姿を変えるまで、既かな植生と生物の多様性で周辺の人々の生活を支え続けた「鎧潟」
失われつつある「潟とともにあった生括」の体験者の声を記録し、故石山与五栄門氏の残した写真記録をはじめとした残存する資料を映像化・上映します。
また、「鉗潟」周辺で生まれ育ち、詩集「鎧潟」を著した詩人国見修二氏をお招きし、映像と合わせた詩を朗読していただきます。

 

14:00 第2部 講演「イギリス・ブローズにみる湿地と人との関係」

講演:野垣成恵氏(アサー・ランサム・クラブ会員)

イギリスの国民的作家、アーサー・ランサムの「オオパンクラプ物語』の舞台となった豊かな湿地帯、ノーフォーク湖沼地方。ヨットの帆走技術を習うため、通祢「ブローズ」と呼ばれるその地域を訪ねた野垣成恵さんに、イギリスの湿地帯と人との関係についてお話しいただきます。

 

14:30 第3部 講演「越後平野の特徴とかろうじて残された潟群」

講演:大熊 孝氏(新潟大学名誉教授・NPO法人新潟水辺の会顧問)

江戸時代初期の越後平野は、砂丘で抑えられ、河口は信濃川と荒川の二つしかなく、かつ日本海は干満の差がなく、潟が無数に存在する低湿地帯であった。ここに18本もの放水路が造られ、協力な排水ポンプを数多く設置し、内水面の水位を海面下に設定し、大地の中に水の動きを起こさせ、湿地帯を干拓して穀倉地帯を作り上げてきた。ここには行き過ぎた開発も見られるが、かろうじて残された潟群には渡り鳥が飛来するとともに、市民の心の癒やしとなる豊かな自然を提供している。さらに、近年では干拓された水田を潟に復元する事業が行われている。この様な状況から越後平野のラムサール条約登録の可能性を探り、今後の越後平野のあり方を考える。

 

15:00 第4部 クロストーク「2050年における新潟の潟」

クロストークパネラー:大熊孝氏、国見修二氏、中島榮ー氏(潟束歴史民俗沢料館館艮)、野垣成恵氏

新潟の「潟」がどのようなものであったのか、また現在はどのような状況であるのか、他国の湿地帯ではどのような辞令があるのかなど、多様なテーマを交わし、今後どんな新潟の「潟」の未来像があり得るのかを探ります。

 

【送迎バスのお知らせ】

旧巻市街から送迎バスが出ます。ご希望の方は問い合わせ先までご連絡ください。

 

【席の確保について】

席は当日先着順となりますが、ご予約での確保も可能ですの問い合わせ先までご連絡ください。

 

【お申込み・問い合わせ先】

メール info@bricole.jp

電話 090-9969-1136

Fax 0256-77-2163

【「鎧潟」とは】

かつて新潟県西蒲原郡(現・新潟市西蒲区)の旧巻町、旧西川町、旧潟東村にまたがって存在した潟湖。越後平野の故障の中でも東西、南北ともに2.5kmと最も大きな方であった。鎧潟周辺に住む人々は、農業とともに漁労(コイ・フナ・ウナギなど)・狩猟(カモ・渡り鳥など)・採集(ヒシ・ハスなど)という縄文依頼の暮らしを継承しつつ、舟遊びに釣り、美しい四季の風景に憩うなど、潟の豊かさを享受しながら方と共生してきた。

標高が低く度々水害に見舞われてきた周辺の低湿地では、江戸後期より後期より鎧潟・田潟・大潟の三潟のの水を抜くための新川掘割工事をはじめ、土地改良や耕地拡大の努力が続けられてきた。明治に入り干拓が進む前の鎧潟は、遊水池としての役割が大きかったが、戦後、急速な食糧増産と周辺農家の要望により、全面干拓の計画がなされ、昭和33年「国営鎧潟干拓建設事業」が着工。潟に流入する3つの河川を新たに開削した水路に付け替え、5基の排水機場を造って潟水を排水するという大事業を展開した。昭和41年に全面干拓が完了し、翌年234haに及ぶ水田が造成され現在に至る。

 

※この催事は水と土の芸術祭2018市民プロジェクトの一環として、同芸術祭実行委員会からの助成を受けて実施するものです。

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