自然との共生①-みずつち芸術祭と越後平野の鎧潟復活について-

しばらく、忙しさにまぎれて投稿していなかったが、少しまとまった時間が取れたので久しぶりに投稿したい。

今年(2012年)は新潟市主催の「第2回水と土の芸術祭」(会期7月14日~12月24日)が3年ぶりに開催される。私は、2009年の「第1回水と土の芸術祭」ではアドバイザーとして作品選定にかかわらせてもらったが、今回は「参与」という役をいただき、連続シンポジウムとそのシンポジウムを補完する「みずつち学校」の企画に関与している。(なお、シンポジウムと「みずつち学校」は、会期以前からプレイベントとして始めている。)

「水と土の芸術祭」の趣旨は新潟市のホームページに譲るが、私なりの解釈を簡単に記しておきたい。

新潟市は人口が約81万人で、本州日本海側最大の政令指定都市であり、その都市として発展の仕方は、他の都市と同様に、自然条件や歴史・文化を無視して、経済的自由を優先させた方法で発展してきた。例えば、潟や川や堀を埋め、都市に都合のいい土地造成を行い、地名も「みずき野ニュータウン」などのように歴史を捨て去った名前にしてきた場合が多い。そうした都市で、「水と土の芸術祭」は、もう一度足下の「水と土」、即ち、自然を見直そうということで出発しており、自然そのものの中で行なわれている「大地の芸術祭」(第1回目2000年、今年は5回目になる)とは若干異なると考えている。近年、「ブラタモリ」というNHKテレビ番組にも見られるように、東京でもその自然条件を見直そうという趣向が出てきているが、行政が率先してそれを始めたという点では、新潟市の「水と土の芸術祭」は先駆的である。また、2011・3・11災害以降では、自然条件を無視すると壊滅もあり得ることが再認識させられ、「絆」も脚光を浴びており、今後、足元の自然や歴史・文化が見直されることは間違いないであろう。ただ、それも行き過ぎると窮屈になるので、自由と絆のバランスが重要であると考える。

それはともかく、こうした認識の下、連続シンポジウムと「みずつち学校」の共通テーマは「自然との共生-人・まち・地域の自然力をいかす-」とした。

「自然との共生」という言葉はもう耳にたこができていることと思うが、それでは具体的にどうすればいいのか、ということがあまりはっきりしない。そこで、一つの具体例として、「鎧潟の復活」をテーマに、この4月7日(土)に「第3回みずつち学校」を開いた。そこでは白熱した議論が展開したが、何ゆえ「鎧潟の復活」で、「他の潟ではだめなのか?」という質問があったので、私なりのその理由を簡単に述べておこう。

鎧潟は、1820年に、西川(元信濃西川と呼ばれ、大河津分水で信濃川から分派して越後平野の海岸沿いを流れる新潟市街地の近くで再び信濃川に合流する。)と立体交差して開削された新川の上流にあり、その後少しずつ干拓が進んだが、1966年に約270ヘクタール残っていた水面が全面干拓された。私が初めて新潟に来たのは1967年の加治川水害調査のときであり、その際、地図では鎧潟が確認できたのであるが、実物を見ることはできなかった。

鎧潟の干拓を可能にした新川は完全なる人工水路であるが、海からの逆流もあり、海と川との生物が豊かにいりまじり、それらを食材として、内野町には割烹料理屋が多く、酒造り屋も4軒もあり、越後平野における“在郷文化”というものつくり出した。しかし、鎧潟が全面干拓され、用排水路も鋼矢板とコンクリートで固められると、生物はほとんど居なくなり、いまや潟文化・水辺文化といわれるものは消失してしまった。新川と同様に、西川と立体交差する大通川放水路(新新樋曽山隧道、2000年完成)など近代的最新鋭技術で開削された人工水路もあるが、かつて新川・西川の立体交差が生み出したような文化は生み出していない。要は、現状は、「水との闘い」に人間側が勝ち過ぎて、効率的に排水だけが機能している状態なのである。

「自然との共生」は、人間側の都合だけでなく、自然にも配慮することが不可欠である。鎧潟の干拓事業は排水機能を強化して標高約1mの湖底を干しあげただけであるので、ポンプなどの作動を抑制すれば、水面の復活は可能である。そして大切なことは、この鎧潟は新川を通じて海とつながることができることである。新潟市内に残存している鳥屋野潟や福島潟は、水面標高が海面より低く維持されており、海水を逆流させるわけにはいかない。鎧潟は、唯一新川を通じて海とつながることができる。そうなれば、新川には汽水域が広がり、鎧潟には生物多様性が復活するに違いない。

鎧潟で生物が豊かに復元すれば、例えばウナギが取れるようになれば、それを前提とした料理屋が復活するなど、新たなコミュニティビジネスが立ち上げられるのではないかと想像する。今の農業は米に依存しているが、減反せざるを得ず、米だけでは将来の展望が開けないでいる。生物多様性の中で、新たな潟文化、水辺文化を創造することで、自然と共生をはかりながら、地域文化が復活することを夢見ている。

私ももう70歳であるが、死ぬまでに鎧潟に映る“逆さ角田山”を見たいものである。

1960年頃の鎧潟 撮影:石山与五栄門

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