公共事業は文化をつくれるか?

しばらく投稿していなかった。定年退職して5年目になるが、結構忙しくしており、投稿する時間がなかなか取れないでいる。最近、「越後新川まちおこしの会」の機関紙「新川通信」に頼まれて下の原稿を書いたので、それを転載させてもらう。地名や固有名詞に馴染みのない方には申し訳ないが、想像力を発揮しながら読んでいただけたら幸いである。

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公共事業は文化をつくれるか?

-西川・新川立体交差事業について再考する-

大熊 孝

 2012年に、新川右岸排水機場が改築され、新しい建屋が作られ、古い建屋が取り壊された(下記写真参照)。この古い排水機場は1953年に作られたものであるが、当時としては最新の大容量ポンプ(31.5m3 /s)を設置し、建屋も窓枠の形などに趣があり、残されていれば、少し化粧をする程度で十分登録有形文化財になりうる建造物であったと考えている。当時は戦後間もなくで、日本としては最も疲弊していた時期であるが、その事業規模が大きいとともに、丁寧な仕事がされており、復興への息吹が感じられる。

今回の新しい排水機場にも、相当なお金が投じられ、ポンプは最新の機能を備えていると考えるが、その建屋は趣のない面白くない建物になってしまった。おそらく、これは50年経過しても登録有形文化財になることはありえないであろう。たぶん、それ以前に老朽化が進んで取り壊されるに違いない。

最近強く感じることであるが、昔の公共事業は地域に新たな文化をもたらしたが、近年の公共事業は地域に何も残さないように思えてならない。

たとえば、幕末の西川・新川の立体交差事業では、地域住民が主体となって資金を捻出して工事を行ったわけであるが、その投資によって人足などが多数集まり、内野の町には新たな茶店や風呂屋、床屋、酒屋などができ、町が大いに繁盛した。さらに、新川完成後は、人工河川でありながら海から魚類がのぼり、生態系豊かな川となり、それを前提とした割烹料理屋などが作られた。また、子供が溺れないことを祈願して静田神社が作られ、精神文化にも影響を及ぼした。いわば、この立体交差事業は、上流の三潟(田潟・大潟・鎧潟)の排水機能を果たすとともに、内野地区に新たな文化をもたらしたのであった。

これと比較して、2000年に完成した大通川放水路(最後は弥彦山系の下をくり貫いた新新樋曽山隧道につながり、日本海に出る)も、西川と大規模な立体交差をしており、排水機能は十分に果たしているのであるが、地域に新たな文化をもたらした形跡は何もない。しかも、農業関係者以外、地域住民もその存在をほとんど知らないでいる。

今回の新川河口排水機場(240m3 /s)や新川右岸排水機場の改築には300億円を超える投資がなされているはずである。しかし、内野の町にこの投資によって何か新たな賑わいが生まれたとは聞かない。

昔の公共事業は、その投資によって地域にもお金が落ち、さまざまな賑わいをつくるとともに、新たな文化を創造してきたといえる。しかし、近年の公共事業は、その目的とする機能は効率的に果たすのであるが、利益は中央に吸い取られ、地域にはなんら付加価値がもたらされない。ここに中央と地方の格差を助長する要因があり、中央は栄え、地方は疲弊するという構図がある。安倍政権で公共事業が増えたとしても、この構図を変えない限り、地方が再生することはないのではと危惧している。同じ規模の公共事業をするにしても、地方にお金が落ちる仕組みが必要である。

新川右岸排水機場旧建屋

新川右岸排水機場旧建屋

新川右岸排水機場新建屋

新川右岸排水機場新建屋

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