水郷・柳川川下り報告

福岡県柳川市は有明湾に面した町です。

平坦な地形のそこかしこに小さな水路が張り巡らされ、その水は田畑を潤していました。一説には総延長930kmといい、まさに水郷の名にふさわしい土地です。

実際、乗船場へ行こうと車を走らせていたのですが曲がりそこね、次の角で曲がれば

目的地へ行けるだろうとハンドルを切ったのですが、その先には水路が阻み、

本当に来た道を戻らなければならい状況でした。

柳川掘割

堀と柳の風景は、かつて新潟にもありました。羨ましい限りです。

今回、なぜ柳川なのか・・・と言えば

1987年公開の高畑勲監督「柳川堀割物語」の映画の上映会が

きっかけで新潟水辺の会が発足したという経緯があり、

是非、行ってみたいと思ったからです。

田中吉政

柳川城の築城は蒲池氏ですが、後に城主となった田中吉政によって掘割が整備されたそうです。縦横無尽に張り巡らされた水路と掘割のため難攻不落の城といわれました。

吉政は羽柴秀次の家臣時代、近江八幡の町づくりも行ったそうです。

近江八幡でも現在、「八幡堀巡り」「近江八幡水郷巡り」がありますが、彼は水路造りの名人なのでしょうか。

 

立花家史料館

その後、立花宗茂が10万石で入封。明治維新まで立花家の居城として続きました。

 

柳川城本丸跡

現在、柳川城の本丸跡は柳川高校の敷地となり、その一角に本丸跡の石碑が淋しく佇むだけでした。

 

この柳川の掘割に竿舟の川下りがあり乗船してきました。

柳川乗船場

 

平成26年10月12日、台風13号が九州に上陸する前日、柳川はどんよりした曇り空でしたが、雨はまだ降らず時折、強い風が吹くお天気。

下百町の乗船場に着くとお客は自分一人、1500円を支払い30分ほど待ちました。

舟が10艇ほど係留され、船頭さんも5、6人いましたが

すぐに出発する訳でなく、おおよそ1時間に1本の割合で運行している様です。

現在、柳川には川下りを行う会社が5社あり、各社に10名ほど船頭がいるのではないかとお聞きしました。

 

柳川川下り

通常は10名ほどを乗せて出発するそうですが、私の場合は船頭さんとのマンツーマンで

普通の会話をしながら1時間ほどの船旅に出発しました。

柳川竿舟

船頭さんは80歳を超えた、この道二十数年のベテランで

かつては有明海で海苔養殖の漁師さんだったそうです。

柳川のお国言葉に少々理解できない部分はありましたが、

気さくなおじいさんで楽しい時間が持てました。

「柳川掘割物語」を知っているかとの問いに

「もちろん、広松伝氏のおかげで今の舟運がある」との答えでした。

広松伝さんは柳川市の職員で、掘割復活に尽力した方です。

高畑監督は、最初はアニメーションの舞台のロケハンに来たのですが、

掘割再生の中心人物である広松氏に触れ柳川のドキュメンタリーを制作することに決めそうです。

私はまだ観ていないので、近いうちに観ようと決めました。

柳川おにぎえ祭り

出発すると、すぐ目の前の橋の上を大勢の人が渡り、お囃子が聞こえきます。

この日は三柱神社の秋季大祭「おにぎえ祭り」があり市内の各町内から小さな山車が出るそうです。

しかし、船頭さん曰く「昔に比べれば人出が本当に少なくて。これも少子化だね。」

との事ですが、それは日本各地で抱える問題ですね。

柳川古文書館

まず外堀部分を進んで行きます。写真は柳川古文書館で秀吉の書状展を開催していました。

舟は時折、川沿いの護岸や係留中の舟、岸に張り出した木の枝などにゴツン!とぶつかりながら進んで行きます。

なかなかラフな操船ですが、時々すれ違う川を遡る舟には、決してぶつけないように進んで行きます。

矢部川から引き込んだ水は澄んでいる様に見えました。

しかし船頭さんの話では、矢部川上流にダムが出来てからは水量も減り、水流も弱くなったため、川底に泥が溜まり水深も浅くなったそうです。

 柳川ビル風

道沿いのビルから時折「ビル風」が吹いて来ました。

この日は台風が九州に上陸する前日でしたが、雨も降らず、風もそんなに強くない状況でしたがビルの前にくると、やはり風が強くなります。

手漕ぎの和船にとって風は大敵です。

船頭さんが言うには「向かい風より、追い風が難しい。」のだそうです。

「向かい風なら力は要るけど舵が取り易い。

しかし追い風は普段よりもスピードが出るので操船が難しい。」との事でした。

舟を止めるには、ザクッと竿を川底に突き刺すのだそうで、目の前で披露していただきました。

これは見た目よりも難しいそうで、この操作をできるのは柳川でも何人も居ないのだそうです。

竿舟は見た目以上に難しいのだな、と感じました。

柳川白秋祭準備

ビル風を抜け少し行くと、11月1日から3日に行われる白秋祭水上パレードの準備が行われていました。

白秋とは柳川出身の北原白秋のことで、夜には灯りを点した何艘もの竿舟が行き交うそうです。

柳川城門水門1

外堀から内堀へと入る石の水門まで来ました。

柳川城門水門2

柳川水門3

舟の幅ぎりぎりの水門には溝が彫ってあり、2月になると板を差し込み堀の水を抜くのだそうです。これを「落水」というのだそうです。

写真では分かりにくいのですが左端の石組みに縦に溝が彫ってある所へ板を入れるのだそうです。

板で遮断すると2時間もすれば水が無くなるそうで、皆で堀の掃除に繰り出すそうです。かつてタンパク源の乏しかった時代は、取り残された魚を捕獲するのがもう一つの目的だったそうです。

内堀へ来ると流れは、一段と緩くなり川の水も濁って来ました。

船頭さんが言うには「昔は川下りだけ。今の様に川登りは出来なかった。」

つまり、昔は水流が強く流れに乗って下る事は出来ても、上流へ向けて漕ぐ事は出来なかったそうです。

今は川下りの舟は最終地点に着くと、何艘も連ねて川を遡って乗船場へ運ぶそうですが(実際、私もその現場に遭遇しました。)かつてはそんな事は出来なかったそうです。

柳川お水取り

ここでも堀沿いの家の裏庭から川へ降りる汲水場の跡が、あちらこちらで見受けられました。

やはり、かつて生活用水として使っていたそうです。

柳川川下り2

やがて舟は廃城後、茂った樹木で薄暗くなった場所へさしかかります。

舟から見る、このような風景は何故かホッとさせらるのが不思議です。

柳川結婚式

しばらく行くと新婚のカップルを乗せた舟とすれ違いました。

聞けば、堀沿いにある住吉神社で挙式した夫婦が披露宴会場まで、舟に乗っていくそうです。船頭さん曰く「今日は3組も遭った。こんな日は珍しい。」との事。

この日は3連休の中日。台風の影響がなければ大勢の人で賑わっていたのでしょう。

天気が良ければ、新郎新婦や親族はもちろん、来賓、友人を乗せた舟が何艘も連なるそうです。

柳川住吉神社

こちらが住吉神社境内の船着場。ここから乗船するそうです。

柳川結婚式2

そして、こちらが内堀の途中にある披露宴会場の船着場。

先ほどの新婚さんは、ここから下船して披露宴に向かったのでしょう。

柳川鰻供養碑

住吉神社近くには鰻供養碑が立っています。

柳川は鰻セイロ蒸しが有名で、年間100万尾もの鰻を消費するそうです。

絶滅危惧種である鰻の保護も、今後、考えなければいけない課題ですね。

 

柳川水上カフェ

その鰻供養碑の脇には水上カフェ?がありました。

要らなくなった舟の上に屋根を組み、飲食店を開いたものでした。

タイの水上市場を思い出しました。

古くて新しい店舗の形態の様に感じました。

柳川逆台形水門

次に現れたのが逆台形の水門。

ここが一番狭い水門だそうで、このサイズに合わせ全ての舟は作られているそうです。

なぜ逆台形なのか?

これは戦に備え、敵が攻めて来た時に水を抜くと水位が下がる。

水位が下がれば、舟の通れる幅が狭まる。ということだそうです。

先人の知恵は素晴らしいものだなぁと感心しました。

柳川本丸裏手

柳川本丸跡に来ると船頭さんは、本丸跡地に立つ柳川高校はテニスの名門で松岡修造が

テニス留学した事や明治維新時に廃城令が出た際、反乱分子が出ないように当時の藩主が城に火を放っ逸話などを語ってくれました。

柳川白秋まちぼうけ

写真は、北原白秋の「まちぼうけ」を題材に作られた像です。

ここへ来ると北原白秋作詞の「まちぼうけ」「あめふり」の歌を歌ってくれました。

柳川柑橘系果実

途中、堀沿いの家の裏庭に季節の花や、この辺りならではの果実の木を植えて

観光客の目を楽しませてくれているのだそうです。

直接、舟運に関係ない人も柳川の印象を良くしてもらいたいという

心配りなのでしょうか?

とてもとても、ゆったりした時間が流れていました。

しかし正直な話、今回は自分1人の客なので、儲けにはならないとか。

船頭さんに聞けば、船頭さんは歩合制で、今回のように1人の場合は

会社にはお金が入らないのだそうです。

でもお客が来れば1人でも舟を出す。

また大雨の日でも、せっかく来た観光客のために舟を出す。

この日も途中で雨が降っても良い様に自前の雨合羽を持っていましたが

厚手の雨合羽を支給されました。

最後まで着る事がなかったのは幸いです。

柳川御花

舟は終着地の「御花」と呼ばれる場所で下船です。

御花は、かつての立花家のお屋敷で、手前の白い洋館の左脇にあるのが

旧藩主別邸です。

ここでも披露宴が行われるそうで、着いた時に我々の前の舟で

新婚さんが到着したばかりの様で大勢の人がいました。

柳川白秋生家

下船後は、北原白秋の生家跡を見て来ました。

白秋と言えば新潟県民に馴染みのある「砂山」ですね。

柳川鰻セイロ蒸し

御花の船着き場で下船し、船頭さんにお礼を言うと

「柳川は鰻のセイロ蒸しが有名だから食べて行きなさい。」との

お言葉をいただき頑張って食べて来ました。

すでに薄暗くなった界隈を彷徨い入ったお店がセイロ蒸し発祥のお店でした。

鰻の乗ったご飯の下は簀の子になっていて、そこから蒸気で蒸したものなのでしょうか?

話を聞かなかったのですが、味はもちろん美味しかったです。

柳川若い船頭

今回、乗船途中で20代の女性と男性の船頭さんが練習をする舟とすれ違いました。

船頭さん曰く「ある会社では若い人を雇っている。」との事で今は10人前後居る様な話をしていました。

若い人が船頭に志願するなんて、なんと羨ましいものだと感じました。

下船後、たまたま出くわした80歳代の船頭さんと話をする事が出来ました。

やはり有明で漁師をしていたとの事。

新潟から来たと言うと「佐渡は行ってみたいな。」と話されました。

乗船した船頭さんも「佐渡は一度行ってみたい」と話されていました。

「なぜ佐渡なのか?」・・・・

その真意は聞きませんでしたが、新潟県のイメージにとって

何かのキーワードになるような印象を受けました。

3 comments

  • 日高 渉

    柳川の記事、とても興味深く読ませていただきました。

    私は柳川出身でして、滋賀出身の田中吉政が掘割を整備したことは知っていましたが、近江八幡も整備していたことは初めて知りました。
    ちょうど先月、近江八幡を初めて訪問して、いい地域だなと気に入った所でしたので、柳川と共通点があったことを知り嬉しく思っています。

    余談ですが、現在柳川では、森里海連関学を提唱してきた大津市出身の田中克先生が、地元住民の方と一緒になって、掘割の水質浄化と有明海再生に取り組んでいる所です。
    今も昔も、琵琶湖のある滋賀と掘割・有明海のある柳川は、水でつながってるんだなと感じます。

  • 長谷川 隆

    日高さま

    書き込みありがとうございます。いずれ柳川の水質浄化と有明再生についてのお話などをお聞かせください。
    よろしくお願い致します。

  • 長谷川 隆

    仏教には「嘘も方便」という語があります。
    方便とは、今は民衆に理解してもらえなくても
    例え話で民衆を導き、結果、仏の教えを信じた者が
    成仏できるという話だったと理解しています。

    シシュフォスの神話も、日本の賽の河原の石積みのようです。
    幼くして死んだ子供が賽の河原で地獄の釜が開く日を楽しみに積んでいるのを鬼が崩してしまうという話だったと思います。

    何事をするにも鬼の様な横槍が入り、また同じ繰り返しを要求されるのが数千年、なにも変わらない歴史ならば、甘んじて受け入れるしか無いのでしょうか?

    たぶん『覚悟の人』とは、何千年も同じ事を繰り返しても耐え忍ぶ人か、ある時にちゃぶ台を引っくり返す星一徹の様な大馬鹿者なのかもしれないと感じる昨今です。

    追伸 : 「分かっちゃいるけど止められない」の喫煙は、私も同じです!
    断煙した人の何と強固な意志よ!と感じます。
    強靭な意志の人だけでなく軟弱な意志の人もいて、面白きかな人生は、などと言うのは不謹慎でしょうか?

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