2011年7月新潟・福島豪雨災害の特徴ーその1-

新潟では7月末に豪雨があり、図1のように越後山脈から越後平野に掛けて猛烈な雨が降り、五十嵐川上流の笠堀ダム地点では総雨量が1006mmにも達した。まるで、台風が直撃する紀伊半島や四国の徳島・高知並みの豪雨であった。

 

図1・2011年7月新潟・福島豪雨等雨量線図(新潟県土木部提供)

この豪雨で、阿賀野川も、五十嵐川も、魚野川も既往最大の洪水になり、山間部では大きな被害を受けた。しかし、今回の水害の第1の特徴は、越後平野に注ぐ主要河川がほぼすべて大出水したにもかかわらず、越後平野でほとんど水害が発生しなかったことである。

このように越後平野のほとんどの河川が大出水したのは、「横田切れ」で有名な明治29(1896)年7月水害以来である。このときは、合計300箇所以上の破堤があり、図2のように越後平野全域が水没し、氾濫水が完全に引くのに4ヶ月以上もかかったとのことである。

図2・明治29年越後平野水害氾濫図(出典:大熊著「洪水と治水の河川史」(平凡社、1988年、135頁))

その後の越後平野での水害は、ほとんど阿賀野川だけ、信濃川だけ、信濃川下流管内だけの出水ということで、明治29年のような水害には見舞われてこなかった。

今回の洪水が明治29年型でありながら、内水氾濫(本川水位が高く、そこに合流する支川などの洪水が吐けなく、氾濫すること。)程度で、越後平野にほとんど被害が発生しなかったのは、明治以降に実施されてきた、信濃川の放水路である大河津分水、信濃川と阿賀野川の分離を図った阿賀野川改修などのお蔭であることは論を待たない。仮に、大河津分水がなく、信濃川の洪水が信濃川下流域にも流れ込み、阿賀野川洪水が小阿賀野川を通じて信濃川下流に流れ込んでいたら、明治29年水害の再来は間違いないところである。無論、2004年7・13水害以後に五十嵐川・刈谷田川・信濃川下流で施された改修工事も大いに役立ったが、この100年かけて作り上げてきた、堰・水門などを含む越後平野の治水システム(「堰・水門の違い」の項を参照)のお蔭であることは肝に銘じておくべきことであろう。

ただ、越後平野に危険がまったくなかったわけではない。信濃川下流では、保明新田地点(五十嵐川合流点下流)で計画高水位を最大22cm、7時間も越えていた。また、分派川である中ノ口川では白根橋で計画高水位を最大56cm、19時間も越えていた。中ノ口川の水位が計画高水位を超えたのは2004年7・13洪水でも発生し、その後、洪水時の中ノ口川水門のゲート開度は絞るように操作が改定されていたが、今後も、信濃川下流と中ノ口川の安全度を比較検討して、中ノ口川水門のゲート開度がどうあるべきか慎重に再検討する必要があろう。

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