近江八幡水郷めぐり報告

琵琶湖の東岸はかつて近江と呼ばれ、戦国時代には織田信長を筆頭に戦国武将たちがその覇権を競った土地です。

近江八幡は昔から琵琶湖を行き交う舟と北国街道・中山道の街道筋から多くの人と物が

往来し、栄えた場所だそうです。

琵琶湖地図

現在の滋賀県近江八幡市は「水郷の町」として櫓漕ぎ舟による水郷巡りが有名な

観光スポットとして年間多くの観光客が訪れるそうです。

近江八幡地図

地図の大きな赤枠が近江八幡市の市街地で、かつての八幡山城の堀がある場所です。

今回、私が乗船したのは小さい赤枠の水路を巡る「水郷巡り」でした。

西の湖と琵琶湖に通じる長命寺川(地図にある上の水路)は2008年、

琵琶湖の拡大登録としてラムサール条約に登録されたようです。

地図はGoogleマップを借用しました。

近江八幡乗船場1

 

平成26年10月21日、午後2時過ぎに近江八幡に到着。すぐ目に留まった

「元祖 水郷めぐり舟のりば」の看板に車を停め受付します。

観光バスが3台ほどすでに停まっており、中には越後交通の観光バスも。

新潟からのバスツアーもあるのかと感心しました。

近江八幡乗船場2

 

団体客が乗船待ちをする中、ご夫婦、友人連れのお客に混じり1人で受付します。

最終の15時発の舟に予約でき、2,160円を支払い乗船を待ちます。

およそ80分の船旅です。

近江八幡手漕ぎ舟1 近江八幡手漕ぎ舟2

やがて名前を呼ばれ舟に乗り込みます。

この舟は6人乗りの定期便で「かいつぶり丸」だそうです。

乗船を待つ間、先発の舟が戻って来ました。

よく見ると「竿舟?」と疑問符が・・・・・

これは後で解るのですが、場所によって櫓漕ぎと竿を使い分けているのでした。

写真はバックで戻ってくるために竿を使用しているものです。

近江八幡船頭

15時、私を含めた少人数客の6人で出発しました。

船頭さんの近くでと思い最後に乗り込みます。

船頭さんは退職後、櫓漕ぎを覚えたそうです。お見かけすると80歳代のようで

おそらく20年の船頭歴でしょうか?

近江八幡では現在、5社が水郷めぐりを運営しているそうです。

そういえば福岡県柳川でも5社でした。このくらいの数がちょうど良いのでしょうか?

例に漏れず「どこから来ましたか?」の問いに「新潟です。」と言うと

「佐渡に行ってみたい。」との答え。

柳川の船頭さんも言っていたが「佐渡に行きたい。」は、本当に新潟のイメージなのか?

他県から見る新潟のイメージを真剣に考えてみる必要があるのかと考えてしまいました。

ところで今回、私の乗った舟会社では30艘ほど所有しているようですが船頭の数が足りないとの事。

船頭になる資格は?と聞けば「漕げたら誰でも」との事。

「ひと月くらいで漕げる様になるさ。」とのお言葉。

う〜ん。本当だろうか?

近江八幡葦2

出発して狭い水路をしばらく進むと、急に目の前が開けました。

葦原と水面の広大な風景です。福島潟を思い出させます。

近江八幡葦1

近江八幡では葦を大切にしているそうです。

葦(あし)は悪し(あし)に通ずるとして、日本人特有の感覚で昔から反語の葦(よし)と言い習わしてきました。

かつては葦簀(よしず)の材料として日常生活に使われて来たようですが

今は安い中国産に押され商業用には、ほとんど使われていないそうです。

しかし水質の浄化に役立っている事と近江八幡の景観を守るために大切にしているとの事。

春先には芽吹きを促すため野焼きを行い(これは福島潟でも行なっていますね。)、

新緑の頃にはヨシキリ(葦雀)の声で賑やかになるそうです。

近江八幡ガマ1

蒲(がま)です。季節的に盛りを過ぎ所々、枯れかかった蒲の穂を見ましたが、これも大切にしているそうです。

新潟平野は別名、蒲原とも言う訳で、かつてはあちらこちらの池や湿地に当たり前の様にありましたが、近年見かける事が少なくなりました。

写真では撮りませんでしたが、葦原の中に要注意外来種のセイタカアワダチソウが見受けられました。

ススキの繁殖地を侵略するセイタカアワダチソウが葦の生態系を崩すのかは知りませんが

私が思うに植物に限らず日本在来の生物がのんびりと暮らして来た中に、繁殖力の旺盛な外来種がやって来た事は、鎌倉時代の元寇か幕末の黒船来航の騒動どころでは無い様な気がします。

近江八幡ミドリガメ

ブレブレの写真で申し訳ないのですがミドリガメが日光浴していました。

船頭さん曰く「ミドリガメが凄く繁殖している。小さいうちは可愛いが大きくなって飼いきれなくなり、ここに放ったのが大繁殖している。」との事。

縁日の夜店では御馴染みのミドリガメ。

しかし成長すれば体長20センチ以上にもなる亀で、これも日本の侵略的外来種ワースト100に入るもの。関東圏ではワニガメやカミツキガメが繁殖しているらしいが、こうした生態系にも注意が必要だと感じました。

 

近江八幡カイツブリ

次に現れたのが滋賀県の県鳥でもあるカイツブリ。

舟のすぐ脇を泳いでいました。そういえば、この舟も「カイツブリ丸」でしたね。

水中に潜り小魚を捕まえるのが得意な鳥で飛べないそうです。

水中に潜っては水面に現れ、何度も水中に潜る姿が可愛らしかったのですが、

船頭さんの話では、どうやら1羽で1日2kgの餌を補食するらしく見た目に似合わず

食いしん坊の鳥のようです。

近江八幡城山

視点を再び風景に向けます。

進んで来た方向を振り返ると、左手奥の山が八幡山城跡で山頂までロープウェイで行けるそうです。八幡山城は豊臣秀吉が築城したそうで養子・羽柴秀次が居城し、城下町の掘割は家老の田中吉政が整備したと言われています。

福岡県柳川市の掘割も田中吉政が作ったと言われ、今回の舟運巡りで私が興味を持った人物です。ウィキペディアで調べたところ愛知県岡崎市の城下町も整備したようで来年は岡崎城を観ようと決めました。

近江八幡安土山

今度は前方手前に小さな山が見えて来ました。

船頭さんが言うには「あれが安土山です。織田信長が築いた安土城の遺構が観れます。」との事。本能寺の変で安土城が焼失すると、その城下町を近江八幡へ移したそうです。

そんな話を聞くだけでも教科書で学んだ安土の楽市楽座が近江八幡に移り、やがて日本三大商人のひとつ近江商人に繋がっていったことを肌で感じる事ができました。

それにしても豊臣秀吉や織田信長など歴史上の人物を日々身近に感じる事のできる土地柄というのも何故か羨ましい気持ちがしました。

(別に秀吉や信長の信奉者ではないのだけれど。)

近江八幡柳

柳の木です。昔、教えて頂いた事があり、湖沼が陸地化していく過程で、水深が浅くなると、まず葦が生え、次に柳などの木が生えてくるという事だったと記憶しています。

船頭さん曰く「水柳です。」とのこと。ヤナギというとシダレ柳かネコヤナギを、すぐ連想してしまいますが、こうした種類の柳もあるんですね。

花鳥風月には滅法弱いのでお話を聞くだけで勉強になります。

この辺りの水深を聞くと、立って歩けるほどの浅さだそうです。

水の透明度が低いので底まで見えませんが、柳の木が生える位だから、やはり浅いのだろうと感じました。

近江八幡客

ここでお客さんで年配の女性が話しだしました。

昔、近江八幡に住んでいたそうで、幼い頃に良く家の前から船に乗り、家の人に付いていき水路を巡っていたそうです。

ある時、舟から降り膝上くらいの水深の所を歩いて遊んだそうで、見渡す限りの水面で民家も見えない場所だったそうです。

「あれは琵琶湖だったのでしょうか?」と女性が船頭さんに聞いていました。

船頭さんも元々地元の人ではないらしく、今から5、60年くらい前の八幡の様子は分からない様でしたが、「琵琶湖も昔は遠浅の場所があったようです。」と答えていました。水路を通れば琵琶湖にも出られるようです。昔は頻繁に琵琶湖へ舟で出ていたのでしょうか?その真相は分かりません。

どちらにしろ、幼い頃に受けた強烈な印象は何年経っても記憶に残るものですね。

私も就学前に来た新潟の海岸が海辺までの距離が長くて、足の裏を焼く様な熱い砂、

どこまでも遠浅の海というのは覚えているものです。

近江八幡倒木

先ほどの柳の木を少し進んだ場所では、昨年の台風で倒れた木が根をこちらに向け横たわっていました。根を深く張れない場所だという事が一目で分かりました。

近江八幡桜並木

やがて舟は桜並木の水路に入って来ました。春には満開の桜をバックに舟を撮ろうというカメラマンが沢山、橋の上からカメラを構えるようです。

パンフレットなどでもここの写真が多く使われ、水郷めぐりの代表的なイメージのようです。

近江八幡竿漕ぎ

ここで船頭さんは櫓漕ぎから竿漕ぎに変えました。

聞けば、ここの水路は狭いので竿にするのだそうです。

しかし、後続の舟の船頭さんは、ここでも櫓漕ぎを続けていました。

櫓と竿を使い分けるのは船頭さんによって違うのかもしれません。

櫓漕ぎと竿漕ぎの違いや勘所を聞いておくべきだったと後で後悔しました。

帰ってからネットで調べると「櫂一年、櫓漕ぎ三年、竿十年」とか「竿さし3年、櫂三月」などという言葉を見かけたのですが、竿舟の方が難しいのか?!

そういえば柳川は竿漕ぎでした。

柳川の船頭さんは、一漕ぎ見れば素質があるか無いか判ると言っていたのを思い出しました。やはり和船は奥が深そうです。

近江八幡橋1

桜並木の水路を過ぎた先には、また広々とした水面が待ち受けていました。

その手前で橋をくぐるのですが、水路が少しカーブしていました。

船頭さんを見ていたら櫓を小刻みに動かしながら方向転換を取っていました。

次回、船に乗る時は、ずっと船頭さんの櫓漕ぎを観ていようかとも考えました。

近江八幡橋2

広い湖沼に島が二つ並んでおり、その間に橋が架けられていました。

舟はその下をくぐり抜けていきます。パッと見は木の橋の様ですが

実は鉄筋の橋だそうです。表面を木目調に加工しているのだとか。

タイミングを逃して、こんな写真になってしまいました。右手にも島があります。

近江八幡東屋

途中、東屋が見えました。水路の横には公園などや自転車用の周遊路もあるそうで

時折、時代劇のロケも行なわれるそうです。

今年もすでに4、5回、時代劇の撮影があったようです。

船頭さん曰く「水戸黄門のロケなんて、今まで何回あったことか。」

この風景ならば納得です。

近江八幡鰻しかけ

写真では分かりにくいのですが、水面に浮き袋が浮かんでいました。

これは鰻(うなぎ)の捕獲罠の目印だそうで、ここ近江八幡も鰻が名物だとの事。

しかし待てよ、水路の先は琵琶湖。琵琶湖の先は?

瀬田川から淀川に合流し海に通じてはいるけれど、こんな距離まで登ってくるのか?

鰻も大したものだと感じました。鮭の遡上を思い出しました。

近江八幡鮒仕掛け

草に隠れた鮒(ふな)の仕掛け籠もありました。鮒寿司も名物だそうです。

近江八幡鮒穫り籠

 

橋の下には使っていない鮒用の籠がありました。

私の実家のある新発田にも鮒寿司があります。

小さい頃に食べて「こんな物、二度と食べるか!」なんて思うほど癖のある味でした。

以来、口にしていませんが大人になった今、どう感じるのか?

今度、食べてみようと決めました。

近江八幡よしの大龍神

やがて葦の間から小さな祠が姿を現しました。

水郷の守り神・よしの大龍神です。

無病息災・延命長寿のご利益があるそうです。

私の乗った舟会社では毎年、水郷祭でよしの大龍神に一年の安全を祈願するそうで

この時は観光客にも葦の葉で作った「ちまき」を振る舞うとの事です。

今度は時期を調べて行きたいと思います。

近江八幡別の会社の舟

さて訪れたのが10月の平日で、空いているのだろうなんて思っていましたが

乗船場での観光客の団体、私たちの後ろを付いてくる会社員の団体さんの舟、そしてすれ違う親子連れなど、こんな時期で平日にもかかわらず舟が何艘も出ていました。

近江八幡櫓漕

よしの大龍神を過ぎ、かつては花嫁を乗せた舟が往来したという嫁入り水道辺りから

写真が極端に減ります。

櫓漕ぎの舟の揺れと、のんびりとした時間、昨夜、大阪の仲間と飲んだ疲れが睡魔を誘いました。船頭さんが漕ぐたびにユラユラと揺れる舟は揺り籠のようです。

もちろん揺り籠などという高尚な育児環境で育った訳ではないのですが

人を気持ち良くさせる揺れやリズムというものはあるのですね。

ここから船着き場までの写真はありませんでした。いわゆる「寝落ち」というものです。

近江八幡手漕ぎ舟3

気がつけば船着き場です。

雨の時は写真の様にシートを下ろした姿になるそうです。

基本的に年中無休で、冬はコタツ舟になるそうです。

ここで船頭さんにお礼を述べ下船しました。

面白かった!楽しかった!とても気持ちの良い80分間でした。

今回、松江、柳川、近江八幡と三カ所の舟運を巡りました。

それぞれに良い点は、もちろんあるけど自分の中では、ここが一番かな?

何が?と問われれば表しにくいのですが、広大な葦原と水面、遠くに見える近郷の山々以外、何も無い風景。櫓漕ぎの揺れ。

しばし現代社会から日本の原風景に引き戻された感覚が良かった様に感じました。

もしくは葦原が馴染み深い福島潟の風景に似ていたからでしょうか?

また来年、必ず訪れようと決心しました。

近江八幡水郷めぐり経路

帰って来てから地図を眺め通って来た水路は、ここかな?と思い出しながら赤線で記しました。途中寝ていたりしたので違うのかもしれませんが、この距離を櫓漕ぎで80分で廻ったという事に後で驚きました。距離の尺図が無いので実際、何キロなのか分かりません。地図はGoogleマップからの借用です。

近江八幡商人

下船後、城下町の町並みを観たいと思い八幡堀の近くを散策。

昔の城下町の風情が残り、そこかしこに近江商人の屋敷跡が残されていました。

近江八幡堀巡り

近江八幡堀巡り舟2

掘割はもちろん観ようと決めていました。

八幡堀めぐりの看板を目指し進みます。時間はすでに16時30分過ぎ。

本日営業終了の舟がありました。

これらの舟は動力船ですが、八幡堀りを巡る舟のようです。

近江八幡堀巡り舟1

今回、私が乗船した舟会社を含め5社が水郷めぐりを行なっているようですが、

それぞれの会社でルートが重複しない様に工夫しているようでした。

ある会社では西の湖〜琵琶湖を巡ったりしているようです。

次回は、堀巡りと西の湖〜琵琶湖遊覧をしてみたいと思いました。

近江八幡堀遊歩道

もちろん八幡堀の舟には乗れないので周辺を散策しました。

堀の水辺には写真の様な石の遊歩道が整備されていました。

おそらく後年の造作なのでしょう。

近江八幡堀

しかし堀を散策できる石畳の遊歩道は素敵です。

この風景なら堀遊歩道も歩いてみたくなるのは納得です。

近江八幡兄弟社

表通り沿いを歩くと近江兄弟社メンタームの社屋が。

言わずと知れたメンソレータム、現在のメンータム会社です。

「本社がここなのか」と感心すると、通りを挟んで創始者のウィリアム・ヴォーリズを

顕彰する石像がありました。

近江八幡ヴォーリズ

メンータムの創始者が初めて米国人ということを知りました。

アメリカ合衆国生まれのウィリアム・ヴォーリズは明治末期、英語教師として近江八幡に来日したそうで、以降、この土地を離れる事無く、本業の建築士の傍ら教育(近江兄弟社学園)、医療(ヴォーリズ記念病院)、製薬会社の設立(近江兄弟社)などに尽力し近江八幡で永眠したそうです。

松江の小泉八雲といい、明治時代に訪れた欧米人は、

日本の何に魅力を感じたのでしょうか?

旅の最後に、本当に深く心に残る発見でした。

水郷・柳川川下り報告

福岡県柳川市は有明湾に面した町です。

平坦な地形のそこかしこに小さな水路が張り巡らされ、その水は田畑を潤していました。一説には総延長930kmといい、まさに水郷の名にふさわしい土地です。

実際、乗船場へ行こうと車を走らせていたのですが曲がりそこね、次の角で曲がれば

目的地へ行けるだろうとハンドルを切ったのですが、その先には水路が阻み、

本当に来た道を戻らなければならい状況でした。

柳川掘割

堀と柳の風景は、かつて新潟にもありました。羨ましい限りです。

今回、なぜ柳川なのか・・・と言えば

1987年公開の高畑勲監督「柳川堀割物語」の映画の上映会が

きっかけで新潟水辺の会が発足したという経緯があり、

是非、行ってみたいと思ったからです。

田中吉政

柳川城の築城は蒲池氏ですが、後に城主となった田中吉政によって掘割が整備されたそうです。縦横無尽に張り巡らされた水路と掘割のため難攻不落の城といわれました。

吉政は羽柴秀次の家臣時代、近江八幡の町づくりも行ったそうです。

近江八幡でも現在、「八幡堀巡り」「近江八幡水郷巡り」がありますが、彼は水路造りの名人なのでしょうか。

 

立花家史料館

その後、立花宗茂が10万石で入封。明治維新まで立花家の居城として続きました。

 

柳川城本丸跡

現在、柳川城の本丸跡は柳川高校の敷地となり、その一角に本丸跡の石碑が淋しく佇むだけでした。

 

この柳川の掘割に竿舟の川下りがあり乗船してきました。

柳川乗船場

 

平成26年10月12日、台風13号が九州に上陸する前日、柳川はどんよりした曇り空でしたが、雨はまだ降らず時折、強い風が吹くお天気。

下百町の乗船場に着くとお客は自分一人、1500円を支払い30分ほど待ちました。

舟が10艇ほど係留され、船頭さんも5、6人いましたが

すぐに出発する訳でなく、おおよそ1時間に1本の割合で運行している様です。

現在、柳川には川下りを行う会社が5社あり、各社に10名ほど船頭がいるのではないかとお聞きしました。

 

柳川川下り

通常は10名ほどを乗せて出発するそうですが、私の場合は船頭さんとのマンツーマンで

普通の会話をしながら1時間ほどの船旅に出発しました。

柳川竿舟

船頭さんは80歳を超えた、この道二十数年のベテランで

かつては有明海で海苔養殖の漁師さんだったそうです。

柳川のお国言葉に少々理解できない部分はありましたが、

気さくなおじいさんで楽しい時間が持てました。

「柳川掘割物語」を知っているかとの問いに

「もちろん、広松伝氏のおかげで今の舟運がある」との答えでした。

広松伝さんは柳川市の職員で、掘割復活に尽力した方です。

高畑監督は、最初はアニメーションの舞台のロケハンに来たのですが、

掘割再生の中心人物である広松氏に触れ柳川のドキュメンタリーを制作することに決めそうです。

私はまだ観ていないので、近いうちに観ようと決めました。

柳川おにぎえ祭り

出発すると、すぐ目の前の橋の上を大勢の人が渡り、お囃子が聞こえきます。

この日は三柱神社の秋季大祭「おにぎえ祭り」があり市内の各町内から小さな山車が出るそうです。

しかし、船頭さん曰く「昔に比べれば人出が本当に少なくて。これも少子化だね。」

との事ですが、それは日本各地で抱える問題ですね。

柳川古文書館

まず外堀部分を進んで行きます。写真は柳川古文書館で秀吉の書状展を開催していました。

舟は時折、川沿いの護岸や係留中の舟、岸に張り出した木の枝などにゴツン!とぶつかりながら進んで行きます。

なかなかラフな操船ですが、時々すれ違う川を遡る舟には、決してぶつけないように進んで行きます。

矢部川から引き込んだ水は澄んでいる様に見えました。

しかし船頭さんの話では、矢部川上流にダムが出来てからは水量も減り、水流も弱くなったため、川底に泥が溜まり水深も浅くなったそうです。

 柳川ビル風

道沿いのビルから時折「ビル風」が吹いて来ました。

この日は台風が九州に上陸する前日でしたが、雨も降らず、風もそんなに強くない状況でしたがビルの前にくると、やはり風が強くなります。

手漕ぎの和船にとって風は大敵です。

船頭さんが言うには「向かい風より、追い風が難しい。」のだそうです。

「向かい風なら力は要るけど舵が取り易い。

しかし追い風は普段よりもスピードが出るので操船が難しい。」との事でした。

舟を止めるには、ザクッと竿を川底に突き刺すのだそうで、目の前で披露していただきました。

これは見た目よりも難しいそうで、この操作をできるのは柳川でも何人も居ないのだそうです。

竿舟は見た目以上に難しいのだな、と感じました。

柳川白秋祭準備

ビル風を抜け少し行くと、11月1日から3日に行われる白秋祭水上パレードの準備が行われていました。

白秋とは柳川出身の北原白秋のことで、夜には灯りを点した何艘もの竿舟が行き交うそうです。

柳川城門水門1

外堀から内堀へと入る石の水門まで来ました。

柳川城門水門2

柳川水門3

舟の幅ぎりぎりの水門には溝が彫ってあり、2月になると板を差し込み堀の水を抜くのだそうです。これを「落水」というのだそうです。

写真では分かりにくいのですが左端の石組みに縦に溝が彫ってある所へ板を入れるのだそうです。

板で遮断すると2時間もすれば水が無くなるそうで、皆で堀の掃除に繰り出すそうです。かつてタンパク源の乏しかった時代は、取り残された魚を捕獲するのがもう一つの目的だったそうです。

内堀へ来ると流れは、一段と緩くなり川の水も濁って来ました。

船頭さんが言うには「昔は川下りだけ。今の様に川登りは出来なかった。」

つまり、昔は水流が強く流れに乗って下る事は出来ても、上流へ向けて漕ぐ事は出来なかったそうです。

今は川下りの舟は最終地点に着くと、何艘も連ねて川を遡って乗船場へ運ぶそうですが(実際、私もその現場に遭遇しました。)かつてはそんな事は出来なかったそうです。

柳川お水取り

ここでも堀沿いの家の裏庭から川へ降りる汲水場の跡が、あちらこちらで見受けられました。

やはり、かつて生活用水として使っていたそうです。

柳川川下り2

やがて舟は廃城後、茂った樹木で薄暗くなった場所へさしかかります。

舟から見る、このような風景は何故かホッとさせらるのが不思議です。

柳川結婚式

しばらく行くと新婚のカップルを乗せた舟とすれ違いました。

聞けば、堀沿いにある住吉神社で挙式した夫婦が披露宴会場まで、舟に乗っていくそうです。船頭さん曰く「今日は3組も遭った。こんな日は珍しい。」との事。

この日は3連休の中日。台風の影響がなければ大勢の人で賑わっていたのでしょう。

天気が良ければ、新郎新婦や親族はもちろん、来賓、友人を乗せた舟が何艘も連なるそうです。

柳川住吉神社

こちらが住吉神社境内の船着場。ここから乗船するそうです。

柳川結婚式2

そして、こちらが内堀の途中にある披露宴会場の船着場。

先ほどの新婚さんは、ここから下船して披露宴に向かったのでしょう。

柳川鰻供養碑

住吉神社近くには鰻供養碑が立っています。

柳川は鰻セイロ蒸しが有名で、年間100万尾もの鰻を消費するそうです。

絶滅危惧種である鰻の保護も、今後、考えなければいけない課題ですね。

 

柳川水上カフェ

その鰻供養碑の脇には水上カフェ?がありました。

要らなくなった舟の上に屋根を組み、飲食店を開いたものでした。

タイの水上市場を思い出しました。

古くて新しい店舗の形態の様に感じました。

柳川逆台形水門

次に現れたのが逆台形の水門。

ここが一番狭い水門だそうで、このサイズに合わせ全ての舟は作られているそうです。

なぜ逆台形なのか?

これは戦に備え、敵が攻めて来た時に水を抜くと水位が下がる。

水位が下がれば、舟の通れる幅が狭まる。ということだそうです。

先人の知恵は素晴らしいものだなぁと感心しました。

柳川本丸裏手

柳川本丸跡に来ると船頭さんは、本丸跡地に立つ柳川高校はテニスの名門で松岡修造が

テニス留学した事や明治維新時に廃城令が出た際、反乱分子が出ないように当時の藩主が城に火を放っ逸話などを語ってくれました。

柳川白秋まちぼうけ

写真は、北原白秋の「まちぼうけ」を題材に作られた像です。

ここへ来ると北原白秋作詞の「まちぼうけ」「あめふり」の歌を歌ってくれました。

柳川柑橘系果実

途中、堀沿いの家の裏庭に季節の花や、この辺りならではの果実の木を植えて

観光客の目を楽しませてくれているのだそうです。

直接、舟運に関係ない人も柳川の印象を良くしてもらいたいという

心配りなのでしょうか?

とてもとても、ゆったりした時間が流れていました。

しかし正直な話、今回は自分1人の客なので、儲けにはならないとか。

船頭さんに聞けば、船頭さんは歩合制で、今回のように1人の場合は

会社にはお金が入らないのだそうです。

でもお客が来れば1人でも舟を出す。

また大雨の日でも、せっかく来た観光客のために舟を出す。

この日も途中で雨が降っても良い様に自前の雨合羽を持っていましたが

厚手の雨合羽を支給されました。

最後まで着る事がなかったのは幸いです。

柳川御花

舟は終着地の「御花」と呼ばれる場所で下船です。

御花は、かつての立花家のお屋敷で、手前の白い洋館の左脇にあるのが

旧藩主別邸です。

ここでも披露宴が行われるそうで、着いた時に我々の前の舟で

新婚さんが到着したばかりの様で大勢の人がいました。

柳川白秋生家

下船後は、北原白秋の生家跡を見て来ました。

白秋と言えば新潟県民に馴染みのある「砂山」ですね。

柳川鰻セイロ蒸し

御花の船着き場で下船し、船頭さんにお礼を言うと

「柳川は鰻のセイロ蒸しが有名だから食べて行きなさい。」との

お言葉をいただき頑張って食べて来ました。

すでに薄暗くなった界隈を彷徨い入ったお店がセイロ蒸し発祥のお店でした。

鰻の乗ったご飯の下は簀の子になっていて、そこから蒸気で蒸したものなのでしょうか?

話を聞かなかったのですが、味はもちろん美味しかったです。

柳川若い船頭

今回、乗船途中で20代の女性と男性の船頭さんが練習をする舟とすれ違いました。

船頭さん曰く「ある会社では若い人を雇っている。」との事で今は10人前後居る様な話をしていました。

若い人が船頭に志願するなんて、なんと羨ましいものだと感じました。

下船後、たまたま出くわした80歳代の船頭さんと話をする事が出来ました。

やはり有明で漁師をしていたとの事。

新潟から来たと言うと「佐渡は行ってみたいな。」と話されました。

乗船した船頭さんも「佐渡は一度行ってみたい」と話されていました。

「なぜ佐渡なのか?」・・・・

その真意は聞きませんでしたが、新潟県のイメージにとって

何かのキーワードになるような印象を受けました。

松江の堀川遊覧船

「松江の遊覧船は乗った方が良いよ。」「松江の船は是非、見ておくべきだ。」という話をかねてより聞いていたので、今回、長崎へ向かう途中に『堀川遊覧船』を体験して来ました。

松江の堀川遊覧船

島根県松江市は宍道湖畔に位置する都市で、慶長年間に松江城が建設されるなど日本海側の交通の要衝として発展してきました。

そのシンボルと言えば、全国でも数少ない現存天守を有する松江城です。

現存天守では五番目の古さだそうで、四層五階で黒壁の素敵な姿です。

DSC_7466

 

 

堀川遊覧船は、その松江城のお堀を利用した一周およそ50分の舟旅です。

松江の堀川遊覧船2

 

お城入り口の駐車場脇にある「大手前広場乗船場」から15分おきに

定員13名/全長8mの動力船が出航します。

一人1230円。切符売り場で乗船券を買って待つ事しばし。

一人ひとりの名前が呼ばれ、乗船していきます。

靴を脱いでの乗船です。

運行は不定期運休はあるものの基本的に年中無休。

冬場はこたつ舟になるとのことでした。

 

松江の堀川遊覧船4

 

松江城の石垣は、大手門側の石は積まれているものの

北側や西側は土塁のままで、伸びきった樹木が堀側に大きくせり出しています。

一説には、松江藩の財政が石垣整備にまで追いつかなかったとの事らしいのですが、

しかし、これが浦安にある某テーマパークのアトラクションのような雰囲気を醸し出し、お客さんも「まるでジャングルクルーズみたい。」と言っていました。

確かに、明治維新後、用の無くなった城郭跡地の樹木が成長し、

石垣の孕み出しなど悪さをしている様ですが、ここ松江の土塁に生える樹木は

訪れる人達に、ほんの少しの探検気分を与えてくれるのかも知れません。

 

DSC_7443

 

堀川遊覧船の名物と言えば、桁の低い橋をくぐる時に

舟の屋根が下がってくる事です!

さしずめ川船のリンボーダンスの様な趣きです。

写真の様にお客さんは橋をくぐる間、屋根が下がるのと同時に、頭を下げなければいけません。

周遊の間、計4回この動作を要求されます。

船頭さん曰く「この橋くぐりは意外と好評なんですよ。」とのこと。

確かに風景だけを眺めてぼんやり50分を過ごすのと、

時折、こうした「お客さんへの要求」があるものとでは

少し違うのではないでしょうか。

おそらく、こうしたアトラクション的な要素が人気の一部なのかも知れないと感じました。

 

松江の堀川遊覧船3

 

途中、「ふれあい広場」と「カラコロ広場」の二ヶ所の船着場に寄ります。

ここから乗るのも降りるのも自由との事です。

写真は、遊覧船の事務所が有るふれあい広場のものです。

現在、船頭さんの話では舟が45艘、船頭はおよそ70名(内女性10名ほど)で、中には地方から来ている方も居るとの事。

(できれば女性の船頭さんの舟に乗りたかったです。)

ちなみに(カラコロ広場)というネーミングは、

この乗り場のすぐ脇の橋を下駄を履いた人が渡る音を

小泉八雲が書き記したことによるものだそうです。

 

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お堀の南側、現在では商店街や民家が立ち並ぶ所では

時折、川へ降りるための石段が残っていました。

かつては、ここで食器を洗ったりしていたそうですが

そのほとんどが、降り口をコンクリートで固めたり

石段が崩れたままでした。

これも人と川との繋がりが途絶えた残物の様な印象を感じました。

かつて基本的に道路に面した方が「表」で、川に面した方が「裏」という考えだったのかも知れません。

「裏側をみせるなんて」ということなのでしょうか。

平成の時代になり、その意識は変えなければいけないとも感じました。

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一方で、70名いる船頭さんの内、植栽を担当する方が

季節の植物を川沿いに植えているとの事でした。

写真は、あじさいですが、開花時期をずらして様々な植物を植え

訪れる方を喜ばせたいという心配りは見習うものだと感じました。

 

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さて、船頭さんは住宅密集地以外はマイクで解説してくれます。

そして橋をくぐる度に歌を披露してくれます。

「松江舟歌」(曲名の記憶が定かではありません。長山洋子の歌ではない。)

「かいがら節」の二曲を歌っていただきました。

橋の下では反響音のためマイクを通した歌に自然のエコーがかかります。歌い出すのも、橋をくぐる所からで、さすがの演出です。

かつての船旅には舟歌がつきものだったのでしょうか?

横山世話人が、「新潟にも舟歌を!」と述べた経緯が理解できた気がします。

 

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周遊の終わり、船は発着場へと戻ります。

船頭さん曰く「ここが写真のベストポジション」だそうです。

城、お堀、橋、川船、この取り合わせが

堀川遊覧船のハイライトではないかと感じました。

 

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下船後は、松江城/小泉八雲記念館を散策し、出雲蕎を堪能。

およそ2時間半の行程でした。

松江城、堀川遊覧船、小泉八雲の「松江観光三役揃踏」です。

こうした歴史的背景を受けた川舟遊覧の魅力を

どのように取り入れられるのかが

新潟だけでなく、全国の課題なのかなと感じました。

 

さて今回、初めて堀川遊覧船を経験して感じた事は

「単純に人は舟に乗る事を期待しているのかな?

その舞台装置が城郭や歴史的風景/関連施設であれば対価を惜しまない。」

ということなのだと感じた1日でした。

(2014年10月10日 長谷川 記)

 

堀川遊覧船に関しては、横山世話人が2012年に

船頭さんから直接お聞きした記事を載せているので

そちらも参考にして下さい。

http://niigata-mizubenokai.org/2012/0717100045.html

 

リンク

堀川遊覧船サイト

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